厩戸皇子が皇太子となり、推古天皇の政治に関与したと『日本書紀』に記される
『日本書紀』では、厩戸皇子が皇太子となり政治に関与したとされています。推古朝の制度整備や対外関係を語る中心人物の一人です。
小学6年生・中学生 社会|日本史
飛鳥時代には、ヤマト政権の政治を土台に、中国や朝鮮半島の制度・文化を取り入れながら、天皇を中心とする国づくりが進められました。聖徳太子の政治から遣隋使、大化の改新、律令国家の形成までを一つの流れとして学びます。
STEP 1|まず全体像
古墳時代には、大王と豪族を中心とするヤマト政権が各地へ勢力を広げました。飛鳥時代になると、中国の進んだ制度や文化を学びながら、豪族それぞれの力に頼る政治から、中央に権力を集めた国のしくみへと変えていく動きが強まります。
STEP 2|重要年表
飛鳥時代には政治のしくみを変える重要な出来事が続きます。年号だけを覚えるのではなく、それぞれの出来事が「中央に権力を集め、国の制度を整える」という流れのどこに位置するのかを考えながら見ていきましょう。
『日本書紀』では、厩戸皇子が皇太子となり政治に関与したとされています。推古朝の制度整備や対外関係を語る中心人物の一人です。
推古天皇は仏教を盛んにする方針を示したとされています。蘇我氏らの支持もあり、寺院建設など飛鳥文化の発展につながりました。
倭国は隋へ使者を送り、中国の統一王朝との外交を始めました。東アジアの制度や文化を積極的に学ぶ契機となります。
冠位十二階は役人の位を十二段階に分ける制度です。家柄だけでなく能力や功績を意識した官僚制度への歩みとして位置づけられます。
『日本書紀』に記される十七条憲法は、役人が守るべき政治上の心得を示したものです。天皇を中心とする政治秩序を目指す考えが表れています。
小野妹子らが遣隋使として派遣されました。隋との対等性を意識した外交を行い、制度や文化を学ぶ重要な機会となりました。
『日本書紀』には厩戸皇子と蘇我馬子が歴史書を編纂したと記されています。国家の由来や政治秩序を記録しようとする動きとして注目されます。
犬上御田鍬らが唐へ派遣され、遣唐使が始まりました。日本は唐の制度・文化・学問を学び、律令国家づくりへ取り入れていきます。
中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒しました。この乙巳の変を契機に、天皇中心の国家体制を目指す政治改革が進められます。
孝徳天皇の時代に都が難波へ移されました。大陸との交通に便利な地域を拠点として、政治改革が進められました。
『日本書紀』には公地公民などを掲げる「改新の詔」が記されています。ただし記述には後世の制度が反映された可能性があり、内容の成立時期には議論があります。
『日本書紀』には班田を終えたとの記事があります。後の班田収授制につながる土地・人民支配の整備過程として注目されます。
日本は滅亡した百済の復興を支援するため、朝鮮半島へ大軍を送りました。唐・新羅との対立が、日本国内の防衛体制強化へつながります。
日本・百済復興軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗しました。この敗戦を受け、日本は大陸からの侵攻を警戒して国防を急速に強化します。
白村江の敗戦後、大宰府を守るため博多湾側に水城が築かれました。唐・新羅の侵攻を警戒した九州防衛体制の一部です。
九州などに防人を置き、烽による連絡網を整えました。白村江敗戦後の緊張の中で、西日本の防衛体制が強化されます。
大野城や基肄城などの朝鮮式山城が築かれました。大陸・朝鮮半島の築城技術を用いた、白村江敗戦後の防衛施設です。
中大兄皇子は都を飛鳥から近江大津宮へ移しました。東アジア情勢が緊迫する中で、政治と防衛体制の立て直しが進められます。
庚午年籍は全国規模で作られた最初期の戸籍です。人民を把握し、律令国家による支配を整える基礎となりました。
天智天皇の死後、大海人皇子と大友皇子側が皇位をめぐって戦いました。大海人皇子の勝利後、天武天皇を中心に中央集権化が進みます。
天武天皇は飛鳥浄御原宮を政治の中心としました。ここを拠点に、律令国家形成へ向けた制度整備が進められます。
天武天皇は豪族の姓を再編する八色の姓を定めました。天皇を頂点とする新しい身分秩序を整える政策でした。
白鳳地震は南海トラフ沿いで発生した巨大地震と考えられています。『日本書紀』に被害や津波を示す記録が残る古代の大地震です。
飛鳥浄御原令は天武天皇が編纂を命じ、持統朝に施行されたとされます。大宝律令に先立つ律令国家形成の重要な法体系です。
持統天皇は都を藤原京へ移しました。藤原京は条坊制を備えた本格的な都城で、律令国家の新しい政治拠点となりました。
大宝律令によって中央・地方の行政制度や官僚組織が体系的に整えられました。日本が律令国家として制度を確立する大きな節目です。
和同開珎は政府が鋳造した代表的な古代銭貨です。律令国家は貨幣流通を進め、税や交易にも貨幣を利用しようとしました。
元明天皇は平城京を造営するよう命じました。唐の都長安などを参考にした計画都市が、奈良時代の政治の中心となります。
STEP 3|聖徳太子の政治
推古天皇の時代、聖徳太子は蘇我馬子と協力して政治を進めたとされます。冠位十二階では家柄だけでなく能力や功績に応じて役人を取り立てようとし、十七条の憲法では役人が政治を行ううえでの心構えを示しました。
これらは、豪族がそれぞれ力をもつ政治から、天皇を中心として役人が国を治めるしくみへ近づけようとする動きとして捉えることができます。
STEP 4|遣隋使と東アジア
聖徳太子の時代には、中国の隋へ遣隋使が送られました。小野妹子らが海を渡り、中国との外交を行うとともに、留学生や僧たちが中国の制度や文化、仏教などを学びました。
飛鳥時代の国づくりは、日本列島の中だけで進んだものではありません。中国や朝鮮半島との交流から多くを学び、それを日本の政治や文化に取り入れていったことが重要です。
STEP 5|重要な人物
飛鳥時代は、人物同士の関係をつかむと政治の流れが見えやすくなります。歴史博士の人物データから、この時代を学ぶうえで重要な人物を見てみましょう。
6〜7世紀の天皇で、日本史上最初の女性天皇とされる。蘇我馬子や厩戸王が政治を担った時代に在位し、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使派遣など飛鳥時代の政治改革・対外交流が進められた。小野妹子が隋へ派遣されたのもこの治世である。
飛鳥時代に推古天皇を補佐した皇族・政治家で、冠位十二階や憲法十七条の制定に関わったと『日本書紀』に記される。小野妹子らを隋へ派遣し、仏教を保護して法隆寺建立とも結びつけられるが、個々の事績には後世の伝承を含む。
飛鳥時代の豪族で、蘇我稲目の子として大臣を務め、仏教受容をめぐって物部守屋と対立した。587年に守屋を滅ぼした後、推古天皇のもとで厩戸王とともに政治を支え、飛鳥寺の建立を進めるなど蘇我氏の勢力を大きく拡大した。
推古朝の官人。607年と608年に遣隋使として隋へ渡り、608年の渡航では高向玄理・旻・南淵請安ら留学生・学問僧を伴った。
飛鳥時代の政治家。中大兄皇子と協力して蘇我氏を倒し、その後の政治改革を支えた。天皇を中心とする新しい政治体制づくりに関わり、死の直前に藤原姓を与えられたことから、後に大きな勢力となる藤原氏の祖とされる。
672年の壬申の乱で大友皇子側に勝利して即位し、皇親政治を進めながら八色の姓など王権強化策を実施した。飛鳥浄御原令の編纂を命じ、『古事記』『日本書紀』につながる国史編纂事業も開始した。
STEP 6|大化の改新
645年、中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我入鹿を倒し、蘇我氏の本宗家を滅ぼしました。この政変は乙巳の変と呼ばれます。これをきっかけとして、その後に進められた一連の政治改革が大化の改新です。
STEP 7|壬申の乱と国づくり
672年には皇位継承をめぐって壬申の乱が起こり、勝利した大海人皇子は天武天皇となりました。その後、天皇を中心とする政治のしくみづくりがさらに進められます。
戸籍の整備や法律づくりなどが進み、やがて律令と呼ばれる法律と制度によって国を治める体制へつながっていきます。飛鳥時代の改革は、次の奈良時代の国家の土台になります。
STEP 8|飛鳥文化
飛鳥文化を代表する寺院の一つです。仏教が政治や文化の中で重要な位置を占めるようになったことを伝えています。
大陸から伝わった仏教は、豪族の対立を経ながら受け入れられ、寺院や仏像など新しい文化の広がりにつながりました。
飛鳥文化には中国や朝鮮半島などの影響が見られ、日本が東アジアとの交流の中で文化を発展させたことが分かります。
STEP 9|TEXtTEXt
ここからはTEXtTEXtに実際に登録されている社会の問題です。聖徳太子の政治、遣隋使、大化の改新など、飛鳥時代の重要事項を文章から読み取って確かめます。
聖徳太子が政治を進めた目的として最も適しているものはどれですか。
十七条の憲法が定められた目的はどれですか。
冠位十二階で重視されたことはどれですか。
冠位十二階や十七条の憲法、遣隋使などを通して、新しい国づくりと東アジアとの交流が進められました。
蘇我氏を倒した後、天皇を中心として全国を治める政治を目指す改革が進められました。
壬申の乱などを経て政治制度が整えられ、次の奈良時代へつながる国家のしくみが形づくられました。
聖徳太子の政治、遣隋使、大化の改新、壬申の乱は別々の出来事ではありません。東アジアから学びながら、中央に権力を集め、法律と制度で国を治めるしくみを整えていく流れとして見ると、奈良時代へ続く歴史が見えてきます。