北部九州で水田稲作を中心とする弥生文化が始まる
北部九州では水田を使った稲作が始まり、弥生文化が形成されていきました。食料生産の広がりは、人々の暮らしや社会の仕組みを大きく変えていきます。
小学6年生・中学生 社会|日本史
弥生時代には水田での米づくりが広がり、金属器など新しい技術も使われるようになりました。人々が協力して米をつくり蓄える生活は、むらの成長や争い、くにの誕生へとつながっていきます。邪馬台国と卑弥呼まで、社会が変化していく流れを学びます。
STEP 1|まず全体像
縄文時代には、狩り・採集・漁など自然の恵みを利用する生活が営まれていました。その後、北部九州から水田での米づくりが広がると、人々は田の近くで協力して暮らし、収穫した米を蓄えるようになります。
STEP 2|重要年表
弥生時代の日本列島については、遺跡や遺物だけでなく、中国の歴史書からも当時の様子を知ることができます。水田や集落の跡、土器や金属器などの資料と、中国の記録をつなげながら社会の変化を見ていきましょう。
北部九州では水田を使った稲作が始まり、弥生文化が形成されていきました。食料生産の広がりは、人々の暮らしや社会の仕組みを大きく変えていきます。
大陸から伝わった水田稲作は、地域差を伴いながら日本列島各地へ広がりました。米を生産し蓄える生活は、集落や社会のあり方にも影響を与えました。
弥生時代には大陸から青銅器や鉄器が伝わり、利用されるようになりました。鉄器は道具などに、青銅器は祭祀などに用いられました。
銅鐸・銅剣・銅矛などの青銅器は、実用品だけでなく祭祀にも使われました。地域ごとに特徴的な分布があり、弥生社会の文化を知る手がかりです。
周囲に堀をめぐらせた環濠集落が各地につくられました。防御や集落の区画などの役割が考えられ、弥生社会の集団生活を示す遺跡です。
奴国王が後漢へ使者を送り、光武帝から印綬を授けられました。福岡県で発見された「漢委奴国王」の金印と結び付けて考えられています。
STEP 3|米づくりと暮らし
米づくりでは、田をつくり、水を引き、稲を育て、収穫するまで多くの作業が必要です。そのため、人々が協力して作業する機会が増えました。収穫した米は蓄えることができ、食料を計画的に確保する生活にもつながります。
一方で、土地や水、蓄えた米などをめぐって集団どうしが争うこともありました。集落の周囲に堀をめぐらせた環濠集落などは、弥生時代の社会の変化を考える手がかりになります。
STEP 4|弥生土器と金属器
縄文土器と比べて薄手で、形や用途の異なるさまざまな土器がつくられました。煮炊きや貯蔵など、日々の生活に使われました。
鉄でつくられた道具は、木を加工したり農作業をしたりするための道具などに利用されました。
銅鐸・銅剣・銅矛などがつくられ、祭りなどに使われました。地域によって特徴的な分布が見られます。
STEP 5|むらからくにへ
米づくりが広がると、むらの中やむらどうしの間に、富や力の差が生まれていきました。争いを通して複数のむらをまとめる指導者が現れ、人々のまとまりはしだいに大きくなっていきます。
中国の歴史書には、日本列島に多くの「くに」があったことが記されています。また、57年には奴国王が後漢へ使者を送り、皇帝から印を授けられたと記録されています。福岡県で発見された「漢委奴国王」の金印は、この記録と結び付けて考えられています。
STEP 6|邪馬台国と卑弥呼
3世紀の中国の歴史書『魏志』倭人伝には、倭に邪馬台国があり、女王卑弥呼が多くのくにをまとめていたことが記されています。卑弥呼は魏へ使いを送り、「親魏倭王」の称号や銅鏡などを授けられました。
邪馬台国がどこにあったのかについては、現在もさまざまな説があります。ここで大切なのは場所を決めつけることではなく、中国の記録から、当時の日本列島に複数のくにが存在し、その一部が中国王朝と外交関係を結んでいたことを読み取ることです。
STEP 7|代表的な遺跡
吉野ヶ里遺跡は佐賀県にある弥生時代の大規模な遺跡です。周囲に堀をめぐらせた集落や建物、墓などの跡が見つかっており、弥生時代の集落や社会の様子を考える重要な手がかりになっています。
縄文時代の三内丸山遺跡と比べてみると、同じ「大きな集落」でも、弥生時代には米づくりや防御、社会のまとまりなど、新しい特徴が見えてきます。
STEP 8|TEXtTEXt
ここからはTEXtTEXtに実際に登録されている小学6年生・社会「国家の形成」の問題です。米づくりや弥生時代の社会の変化に関する問題を文章から読み取って確かめます。
米づくりが広まると、どのような生活が増えましたか。
弥生土器の特徴として正しいものはどれですか。
村がつくられた理由として最も適しているものはどれですか。
水田稲作が広がり、人々が協力して生産し、米を蓄える暮らしが社会を変えていきました。
富や力の差、争いなどを背景に人々のまとまりが大きくなり、各地にくにが生まれていきました。
中国の歴史書から、3世紀には卑弥呼が邪馬台国を治め、魏と交流していたことが分かります。
弥生時代は「米づくりを始めた時代」だけではありません。米をつくり蓄える暮らしから、むらの成長、争い、くにの誕生へと社会が変化し、邪馬台国と卑弥呼の時代へつながっていきます。