小学6年生・中学生 社会|日本史

平安時代とは?
貴族の政治から、武士が力をもつ時代へ。

794年に都が平安京へ移されてから、鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間。藤原氏の摂関政治、国風文化、院政、そして武士の成長まで、長い平安時代を「政治の中心がどう変わったか」という流れで学びます。

STEP 1|まず全体像

平安時代は、政治の中心が大きく変化した約400年間

平安時代はとても長いため、一つのまとまりとして暗記しようとすると分かりにくくなります。天皇による政治 → 藤原氏の摂関政治 → 上皇による院政 → 武士の台頭という流れで見ると、時代の変化がつかみやすくなります。

平安京と新しい政治桓武天皇が都を平安京へ移し、政治の立て直しを進めました。
藤原氏と国風文化藤原氏が摂政・関白として力をもち、日本の風土に合った文化も発達しました。
院政から武士の時代へ上皇が政治を行う院政が始まり、その後は平氏・源氏など武士の力が強まっていきます。
平安時代を考えるポイント
「誰が政治の実権を握ったのか」を追うと、長い時代が整理できます。同時に、貴族中心の社会から武士が政治に進出していく変化にも注目しましょう。

STEP 2|重要年表

平安京から武士の台頭まで、流れをつかもう

歴史博士の平安時代の公開年表から、基礎・発展レベルの出来事を表示しています。政治・文化・武士の成長がどのようにつながるのかを考えながら見ていきましょう。

794

平安京へ遷都する

桓武天皇が都を長岡京から平安京へ移しました。以後、京都は千年以上にわたり天皇のいる都となり、平安時代の政治・文化の中心となります。

796

平安京に東寺・西寺が設けられる

平安京の東西に東寺と西寺が置かれました。都を守る国家寺院として位置づけられ、東寺は後に空海と真言密教の重要拠点となります。

802

坂上田村麻呂が胆沢城を築く

坂上田村麻呂は現在の岩手県奥州市付近に胆沢城を築きました。朝廷が東北地方を支配するための重要な軍事・行政拠点となります。

804

最澄・空海らが遣唐使とともに唐へ渡る

最澄と空海らが遣唐使とともに唐へ渡りました。二人は新しい仏教を学び、帰国後に天台宗と真言宗の発展を導きます。

805

最澄が唐から帰国する

最澄は唐で天台教学などを学んで帰国しました。比叡山を拠点に日本の天台宗を確立していきます。

806

最澄の天台宗が国家に公認される

最澄の天台宗に年分度者が認められ、国家から公認されました。奈良仏教とは異なる新しい仏教勢力が発展する契機となります。

806

空海が唐から帰国する

空海は唐で密教を学んで帰国しました。帰国後、真言密教を広め、高野山や東寺を重要な活動拠点とします。

810

薬子の変が起こる

平城上皇側と嵯峨天皇側が対立した薬子の変が起こりました。嵯峨天皇側の勝利によって政治基盤が強まりました。

810

蔵人所が設置される

嵯峨天皇は天皇の側近機関として蔵人所を設けました。律令に規定されない新しい官職が政治の実務を担うようになります。

816

空海が高野山開創の勅許を受ける

空海は高野山に修行道場を開く許可を得ました。高野山は後に真言宗を代表する宗教拠点へ発展します。

818

関東地方を中心に弘仁地震が発生する

関東地方を中心に大地震が発生し、大きな被害が出たと記録されています。平安時代初期の社会と自然災害を知る史料です。

823

空海が東寺を与えられる

空海は嵯峨天皇から東寺を与えられ、真言密教の拠点としました。都の中に密教の中心寺院が形成されます。

828

空海が綜芸種智院を開く

空海は庶民にも学びの機会を開くことを目指して綜芸種智院を設けました。平安時代の教育史で注目される取り組みです。

838

遣唐使が唐へ派遣される

平安時代最後となる遣唐使が派遣されました。唐の文化や仏教を学ぶ交流は続きましたが、唐の衰退とともに遣唐使は終息へ向かいます。

838

円仁が遣唐使とともに唐へ渡る

円仁は遣唐使とともに唐へ渡り、仏教を学びました。帰国後は天台宗の発展に貢献し、旅行記『入唐求法巡礼行記』も残しました。

842

承和の変が起こる

承和の変で伴健岑や橘逸勢らが処罰され、皇太子も交代しました。藤原良房の政治的地位が高まる契機となった事件です。

864

富士山の貞観大噴火が始まる

富士山で大規模な噴火が始まり、溶岩が広い範囲へ流れました。現在の青木ヶ原樹海の地形形成にも関係する大噴火です。

866

応天門の変が起こる

応天門が焼失し、伴善男らが処罰されました。この事件を通じて藤原良房の政治的地位がさらに強まりました。

869

貞観地震・津波が東北地方を襲う

東北地方の太平洋岸を巨大地震と津波が襲いました。2011年の東日本大震災と比較研究される、古代の重要な災害記録です。

878

出羽国で元慶の乱が起こる

出羽国で蝦夷の人々による大規模な反乱が起こりました。朝廷の東北支配がなお不安定だったことを示します。

887~888

阿衡の紛議が起こる

宇多天皇が藤原基経に送った詔の「阿衡」という語をめぐって政治問題となりました。関白の権限が明確化される契機となります。

887

仁和地震が発生する

南海トラフ沿いと考えられる大地震が発生し、各地に大きな被害が出ました。平安時代の巨大地震を伝える重要な記録です。

894

菅原道真の建議により遣唐使派遣が停止される

菅原道真の建議を受け、予定されていた遣唐使派遣が停止されました。唐の衰退もあり、その後遣唐使は再開されませんでした。

901

菅原道真が大宰府へ左遷される

菅原道真は藤原時平らとの政争に敗れ、大宰府へ左遷されました。死後は怨霊として恐れられ、のちに天神として信仰されます。

902

延喜の荘園整理令が出される

醍醐天皇は増加する荘園を整理する命令を出しました。律令的な土地制度を維持しようとしましたが、荘園の拡大は続きます。

905

醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』の編纂を進める

醍醐天皇の命により、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されました。仮名文学と国風文化の発展を象徴する作品です。

927

『延喜式』が完成する

『延喜式』は律令を実際に運用するための細かな規則をまとめた法典です。平安時代の政治・制度・祭祀を知る重要な史料です。

935

平将門の乱が本格化する

関東で平将門が国府を攻撃するなど反乱を拡大しました。地方の武士が大きな軍事力を持つようになったことを示す事件です。

936

藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こす

藤原純友が瀬戸内海の海賊勢力を率いて反乱を起こしました。平将門の乱と合わせて承平・天慶の乱と呼ばれます。

939

平将門が「新皇」を名乗る

平将門は関東の国府を次々に攻め、自ら「新皇」を名乗りました。朝廷の地方支配を揺るがした大規模な反乱でした。

940

平将門が討たれる

平将門は朝廷側の武士によって討たれ、関東の反乱は終結しました。鎮圧には地方武士の軍事力が大きな役割を果たしました。

941

藤原純友が討たれる

藤原純友が討たれ、瀬戸内海での反乱も鎮圧されました。承平・天慶の乱は武士が政治・軍事で存在感を増す契機となります。

967

延喜式が施行される

完成していた『延喜式』が施行されました。律令を補う詳細な規則として、朝廷の行政や儀式の実務を支えました。

969

安和の変が起こる

安和の変で源高明が失脚し、藤原氏の有力な対抗勢力が排除されました。以後、藤原北家が摂関政治を独占する方向へ進みます。

995

藤原道長が内覧となり、政権の中心に立つ

藤原道長が内覧となり、朝廷政治の中心に立ちました。娘たちを天皇の后とする外戚政策によって権力を強めていきます。

1001ごろ

清少納言の『枕草子』が成立する

清少納言の『枕草子』は宮廷生活や自然への感覚を記した随筆です。仮名を用いた平安女性文学と国風文化を代表する作品です。

1008

『紫式部日記』に『源氏物語』の存在を示す最古級の記録が残る

『紫式部日記』の1008年の記事に『源氏物語』を示す記述があります。作品の成立時期を考えるうえで重要な最古級の記録です。

1016

藤原道長が摂政となる

藤原道長が外孫の後一条天皇の摂政となりました。天皇の外祖父として政治を主導し、摂関政治の最盛期を築きます。

1017

藤原道長が太政大臣となる

藤原道長が太政大臣となりました。在任期間は短いものの、朝廷で最高位に達した道長の権勢を示す出来事です。

1018

藤原道長の娘威子が後一条天皇の中宮となる

道長の娘威子が後一条天皇の中宮となり、道長は三人の娘を天皇の后としました。藤原氏の外戚政治が頂点に達したことを象徴します。

1019

刀伊の入寇が起こる

女真系の集団とされる刀伊が九州北部を襲撃しました。大宰府や武士が防衛にあたり、平安時代の対外危機を示す事件となりました。

1051

前九年の役が始まる

陸奥で安倍氏と源頼義らが争う前九年の役が始まりました。源氏が東国武士との結び付きを強め、武士の勢力が成長する契機の一つとなります。

1062

源頼義・義家らが安倍氏を滅ぼし、前九年の役が終わる

源頼義・義家らが安倍氏を破り、前九年の役が終結しました。源氏は東国武士の支持を集め、武家としての名声を高めました。

1069

延久の荘園整理令が出される

後三条天皇は荘園の増加を抑えるため延久の荘園整理令を出しました。摂関家を含む有力者の荘園も審査対象とした点が重要です。

1083

後三年の役が始まる

東北で清原氏一族の争いから後三年の役が始まり、源義家が介入しました。源氏が東国武士との結び付きをさらに強めます。

1086

白河上皇が院政を始める

白河上皇が退位後も政治を主導する院政を始めました。摂政・関白を中心とする政治から、上皇を中心とする政治への大きな転換です。

1087

後三年の役が終わる

後三年の役が終結し、源義家の東国での名声が高まりました。源氏と東国武士の主従関係が発展する背景となります。

1096

白河上皇が出家して法皇となる

白河上皇が出家して法皇となりました。出家後も院政を続け、上皇・法皇が政治を主導する体制が定着していきます。

1096

永長地震が発生する

永長地震。当時の社会が大規模な自然災害の影響を受けていたことを伝える重要な記録です。

1099

康和地震が発生する

康和地震。当時の社会が大規模な自然災害の影響を受けていたことを伝える重要な記録です。

1129

鳥羽上皇が院政を始める

鳥羽上皇が院政を始め、白河法皇に続いて上皇が政治を主導しました。院近臣や武士が院を支える政治構造が発達します。

1132

平忠盛が武士として昇殿を許される

平忠盛が武士として昇殿を許され、朝廷での地位を高めました。平氏が中央政界へ進出し、のちの平清盛の政権へつながる重要な動きです。

1156

保元の乱が起こる

皇位継承や摂関家の対立から保元の乱が起こり、武士が戦闘の中心を担いました。武士が中央政治で存在感を強める大きな転換となります。

1158

後白河上皇が院政を始める

後白河上皇が院政を始めました。平氏・源氏などの武士を利用しながら政治を進め、その後の源平争乱にも深く関わります。

1159

平治の乱が起こる

平清盛と源義朝らが対立する平治の乱が起こりました。清盛側の勝利によって平氏が中央政界で急速に勢力を伸ばします。

1161

平清盛が検非違使別当となる

平清盛が検非違使別当となる。院政・平氏政権から鎌倉幕府成立へ向かう政治・社会の変化を理解するうえで位置づけておきたい出来事です。

1164

平清盛が厳島神社に平家納経を奉納する

平清盛が厳島神社に平家納経を奉納する。武士の台頭とともに展開した平安末・鎌倉初期の宗教や文化を伝える重要な事例です。

1167

平清盛が太政大臣となる

平清盛が武士として初めて太政大臣となりました。平氏は朝廷の高位を占め、武士による政権が中央政治を動かす時代となります。

1168

平清盛が出家する

平清盛が出家する。院政・平氏政権から鎌倉幕府成立へ向かう政治・社会の変化を理解するうえで位置づけておきたい出来事です。

1170

平清盛が宋人と福原で会見する

平清盛は宋との貿易を重視し、福原の港湾整備などを進めました。日宋貿易は平氏政権の経済的基盤の一つとなります。

1171

平清盛の娘徳子が高倉天皇に入内する

平清盛の娘徳子が高倉天皇の后となり、平氏は天皇家との外戚関係を築きました。摂関家と同様の方法で政治的地位を強めます。

1175

法然が専修念仏の教えを確立し、浄土宗を開く

法然は阿弥陀仏への専修念仏を説き、浄土宗を開きました。鎌倉時代に広がる新しい仏教の先駆けとなります。

1177

鹿ケ谷の陰謀が起こる

後白河法皇の近臣らが平清盛打倒を企てたとされる鹿ケ谷の陰謀が発覚しました。平氏政権と院政勢力の対立が深まります。

1179

平清盛が治承三年の政変を起こす

平清盛が反対勢力を排除し、後白河法皇を幽閉する治承三年の政変を起こしました。平氏が政治権力を直接掌握する一方、反発も強まりました。

1180

以仁王が平氏追討の令旨を発する

以仁王が各地の源氏などに平氏追討を呼びかけました。この令旨を契機に源頼朝らが挙兵し、全国的な源平争乱へ発展します。

1180

富士川の戦いで平氏軍が撤退する

富士川の戦いで平氏軍が撤退する。平安末から鎌倉初期に武士が政治と軍事の中心へ進出していく流れの中で起きた重要な争いです。

1181

養和の飢饉が深刻化する

養和の飢饉が深刻化する。院政・平氏政権から鎌倉幕府成立へ向かう政治・社会の変化を理解するうえで位置づけておきたい出来事です。

1183

木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破る

木曾義仲が倶利伽羅峠で平氏軍を破り、平氏の都落ちにつながりました。源平争乱の戦況を大きく変えた戦いです。

1183

寿永二年十月宣旨により、源頼朝の東国支配が朝廷から公認される

朝廷が頼朝の東国支配を事実上認める寿永二年十月宣旨を出しました。鎌倉の武家政権が公的な支配権を得る重要な段階です。

1184

一ノ谷の戦いで源氏軍が平氏軍を破る

源範頼・義経らが一ノ谷で平氏軍を破りました。平氏は西へ退き、源氏側がさらに優勢となります。

1185

壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する

壇ノ浦の戦いで源氏軍が平氏を破り、平氏政権は滅亡しました。源平争乱の決着となり、頼朝の武家政権確立が進みます。

STEP 3|平安京と桓武天皇

794年、都を平安京へ移す

桓武天皇は794年、都を平安京へ移しました。奈良の寺院勢力から距離を置き、政治を立て直すことも遷都の背景にありました。平安京は現在の京都市にあたり、その後長い間、日本の都となります。

東北地方では朝廷の支配を広げる動きも進められました。平安時代の始まりは、単なる都の移動ではなく、朝廷が政治のしくみを立て直そうとした時期として捉えることが大切です。

STEP 4|藤原氏と摂関政治

天皇との結びつきを強め、政治の実権を握る

平安時代の中ごろになると、藤原氏が大きな力をもちました。藤原氏は娘を天皇の后にし、その子を次の天皇にすることで天皇家との結びつきを強めました。

天皇が幼いときには摂政、成人した天皇を補佐するときには関白として政治を行います。この摂関政治は藤原道長・頼通のころに最も栄えました。

STEP 5|重要な人物

平安時代を動かした人物を、歴史博士から確認しよう

政治・宗教・文化・武士の成長に関わる人物を見ていきます。人物解説には歴史博士で実際に使われている人物データを利用しています。

桓武天皇

8〜9世紀の天皇で、長岡京への遷都を経て794年に平安京へ都を移した。東北支配を進めるため坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷との戦いを進めた。最澄・空海が唐へ渡ったのもこの治世で、平安時代初期の政治・文化を方向づけた。

最澄

平安初期の僧で、804年に遣唐使船で唐へ渡り天台教学を学んだ。帰国後、比叡山延暦寺を拠点に日本天台宗を開き、僧侶を大乗戒だけで養成する戒壇設置を朝廷へ求め、その死後に認められた。

空海

平安時代初期の僧。804年に遣唐使とともに唐へ渡って密教を学び、帰国後に真言宗を開いた。高野山を修行の拠点とし、京都の東寺も与えられた。書にも優れ、嵯峨天皇・橘逸勢とともに「三筆」の一人に数えられる。

菅原道真

学者・官人として昇進し899年に右大臣。901年に大宰権帥へ左遷され、903年に大宰府で没した。

藤原道長

平安中期の公卿で、娘たちを天皇の后とし、外祖父として権力を強めて摂関政治の最盛期を築いた。1016年に摂政、翌年に太政大臣となり、「この世をば」の歌でも知られる。関白には就任していない。

紫式部

平安中期の作家・歌人で、藤原為時の娘。藤原道長の娘で一条天皇中宮の彰子に仕え、光源氏とその周囲の人々を通して宮廷社会と人間心理を描く長編物語『源氏物語』を著した。宮仕えの日々を記した日記も残し、平安文学を代表する作家となった。

清少納言

平安中期の女房・随筆家で、一条天皇の中宮定子に仕えた。宮廷での出来事、人物評、四季の美しさ、「をかし」と感じるものを章段形式で記した『枕草子』を残した。「春はあけぼの」で始まる章段など、鋭い観察と機知に富む文章で知られる。

平清盛

保元・平治の乱を経て権力を強め、1167年に太政大臣となった。日宋貿易を推進し、娘徳子を高倉天皇の中宮として外戚関係を築いた。

STEP 6|国風文化

日本の生活や感覚に合った文化が育つ

遣唐使が停止された後も、それまでに取り入れた大陸文化を土台として、日本の風土や貴族の生活に合った国風文化が発達しました。

かな文字

漢字をもとに、ひらがな・カタカナが発達しました。かな文字の普及は、日本語による文学の発展につながりました。

源氏物語

紫式部が著した長編物語です。貴族社会の人間関係や生活が描かれ、国風文化を代表する文学作品となりました。

枕草子

清少納言による随筆です。宮廷生活や自然、人々についての感覚が生き生きと記されています。

STEP 7|武士の成長

地方の治安や土地を守る中で、武士が力をつける

地方では土地をめぐる争いや治安の問題に対応するため、武装した人々が力をつけていきました。やがて彼らはまとまりをつくり、源氏や平氏などの有力な武士団が成長します。

朝廷や貴族も争いを解決するために武士の力を必要とするようになりました。武士は地方だけの存在ではなく、しだいに中央の政治にも関わるようになります。

STEP 8|院政

上皇が政治の実権を握る

11世紀後半、白河上皇が天皇の位を退いた後も政治を行い、院政が始まりました。これによって藤原氏の摂関政治とは異なる政治の形が生まれます。

上皇・天皇・貴族・寺社などの勢力が争うなかで、武士が軍事力をもって政治に関わる機会が増えていきました。院政は、武士が中央政治へ進出する流れを理解するうえでも重要です。

STEP 9|平清盛と武士の政治

武士が中央政治の中心へ進出する

平安時代の終わりごろ、武士同士の争いを通して平清盛が大きな力をもちました。清盛は太政大臣となり、武士として中央政治の中心に進出します。

平氏は日宋貿易にも力を入れました。しかし、その後は源氏との争いが激しくなり、源平の争乱を経て政治の中心は鎌倉へ移っていきます。ここが、すでに作成した鎌倉時代へつながる大きな転換点です。

STEP 10|TEXtTEXt

文章を読んで、平安時代を確かめよう

ここからはTEXtTEXtに実際に登録されている社会の問題です。平安京、摂関政治、国風文化、武士の成長など、重要事項を文章から読み取って確かめます。

TEXtTEXt|貴族のくらし・仏教文化

平安京へいあんきょうへの都みやこ移転いてん

都みやこは平安京へいあんきょうへ移うつされました。新あたらしい都みやこでは貴族きぞくを中心ちゅうしんとした政治せいじが行おこなわれました。都みやこは政治せいじや文化ぶんかの中心ちゅうしんとなりました。

平安京へいあんきょうへ都みやこを移うつしたあとの様子ようすとして適切てきせつなものはどれですか。

TEXtTEXt|貴族のくらし・仏教文化

藤原氏ふじわらしの政治せいじ

平安時代へいあんじだいには、藤原氏ふじわらしが天皇てんのうを助たすけながら政治せいじを進すすめました。摂政せっしょうや関白かんぱくとして力ちからをもちました。これを摂関政治せっかんせいじといいます。

摂関政治せっかんせいじの特徴とくちょうとして正ただしいものはどれですか。

TEXtTEXt|貴族のくらし・仏教文化

藤原ふじわら道長のみちながと政治せいじ

平安時代へいあんじだいには、藤原ふじわら道長のみちながが大おおきな力ちからをもちました。天皇てんのうを助たすけながら政治せいじを動うごかしました。藤原氏ふじわらしの勢力せいりょくはさらに強つよまりました。

藤原ふじわら道長のみちながの働はたらきとして適切てきせつなものはどれですか。

平安時代で押さえたいポイント

1

政治の中心の変化

天皇、藤原氏、上皇へと政治の実権を握る存在が変化し、最後には武士が中央政治へ進出しました。

2

国風文化

かな文字が発達し、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』など、日本独自の文化が栄えました。

3

武士の成長

地方で成長した武士が政治に関わるようになり、平清盛の時代を経て鎌倉幕府の成立へつながりました。

もっと詳しく調べる・問題を解く

約400年を、「政治の主役の変化」でつなげよう

平安京、摂関政治、国風文化、院政、平清盛を別々に覚えるのではなく、政治の実権を握る人々が変化し、武士が力を伸ばしていく時代として見ると、平安時代から鎌倉時代への流れが見えてきます。