足利義満が室町に邸宅の造営を始める
足利義満は京都の室町に邸宅を造営しました。後に「花の御所」と呼ばれ、室町幕府の名称の由来となる政治の中心地です。
小学6年生・中学生 社会|日本史
鎌倉幕府の滅亡後、足利尊氏が開いた室町幕府。南北朝の争い、足利義満の政治と日明貿易、北山文化・東山文化、そして応仁の乱から戦国時代へ。政治と社会がどのように変化したのかを一つの流れで学びます。
STEP 1|まず全体像
鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇による政治を経て、足利尊氏が京都に幕府を開きました。室町幕府は守護大名の力を利用して全国を治めましたが、将軍の力が弱まると各地の争いが激しくなっていきます。
STEP 2|重要年表
歴史博士の室町時代の公開年表から、基礎レベルの重要な出来事を表示しています。
足利義満は京都の室町に邸宅を造営しました。後に「花の御所」と呼ばれ、室町幕府の名称の由来となる政治の中心地です。
足利義満は観阿弥・世阿弥の猿楽を保護しました。将軍の支援を受けて猿楽は洗練され、能として大きく発展します。
足利義満が京都の室町にある「花の御所」へ移り、ここが幕府政治の中心となりました。「室町幕府」という呼び名は、この地名に由来します。
足利義満が造営を進めていた花の御所が完成しました。将軍の邸宅であると同時に、幕府の政務や儀礼が行われる政治の中心となりました。
足利義満が源氏一族の長とされる源氏長者となりました。清和源氏を称する足利将軍家の権威を高める意味を持ちました。
足利義満は禅宗寺院を格付けする五山制度を整えました。五山の禅僧は文化・学問・外交で幕府を支える存在となります。
足利義満は将軍職を子の義持に譲りましたが、その後も政治の実権を握り続けました。将軍職と実際の権力が必ずしも一致しない例です。
足利義満が太政大臣に就任しました。朝廷の最高官職に就いたことで、将軍職を譲った後も義満が朝廷と幕府の双方で強い権威を持っていたことが分かります。
足利義満は将軍職を譲った翌年に出家しました。出家後も政治から退かず、朝廷や幕府に大きな影響力を持ち続けました。
足利義満が京都北山に山荘を造営しました。金閣を中心とする北山文化は、公家・武家・禅宗文化が融合した室町文化を象徴します。
義満の北山山荘に金閣が建てられました。公家文化と武家文化、禅宗文化が融合した北山文化を代表する建築です。
足利義満が明へ使節を送り、正式な国交を求めました。これが後の日明貿易、いわゆる勘合貿易へつながります。
明は足利義満を「日本国王」として冊封しました。義満は明の国際秩序に参加する形で国交を結び、貿易を進めます。
足利義満が北山山荘に大塔を建立しました。北山殿は金閣だけでなく複数の建物を備え、義満の権威を示す大規模な空間でした。
播磨で農民らが徳政などを求めて蜂起しました。15世紀に各地へ広がる土一揆と村落自治の発達を示す動きです。
足利義政が第8代将軍となりました。その治世には応仁の乱が起こり、幕府の統制力が低下する一方、東山文化が発展します。
足利義政は実子がいなかったため弟の義視を後継者としました。しかし翌年に義尚が生まれ、将軍家の後継問題が複雑化しました。
足利義政が将軍職を子の義尚へ譲りました。応仁の乱の最中であり、将軍交代後も幕府の統制力は十分に回復しませんでした。
足利義政が京都東山に山荘の造営を始めました。東山山荘は銀閣や庭園を備え、東山文化を育む中心となりました。
足利義政の東山山荘に銀閣が建てられました。書院造や庭園、茶の湯などにつながる東山文化を象徴する建築です。
15世紀には農民や地侍らが徳政などを求める土一揆を各地で起こしました。惣村の発達を背景に、民衆の集団的な行動が強まります。
STEP 3|室町幕府の成立
鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は天皇中心の政治を進めました。しかし武士の不満が高まり、足利尊氏が新しい天皇を立てて京都に幕府を開きます。
京都の室町に将軍の邸宅が置かれたことから、この幕府を室町幕府と呼びます。幕府は各地の守護に大きな権限を与え、守護大名の力を利用しながら全国を治めました。
STEP 4|南北朝と足利義満
室町時代の初めには、京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が並び立つ南北朝の時代が続きました。
3代将軍足利義満の時代に南北朝が統一され、幕府の政治は安定します。義満は有力な守護大名をおさえながら将軍の力を強め、京都の北山に金閣を建てました。
STEP 5|重要な人物
人物解説には歴史博士で実際に使われている人物データを利用しています。
鎌倉幕府の有力御家人から後醍醐天皇の倒幕に参加し、六波羅探題を攻め落とした。建武の新政後に天皇と対立し、京都に光明天皇を立てて1338年に征夷大将軍となり室町幕府を開いた。南朝との対立による南北朝時代の北朝側の中心人物となった。
室町幕府第3代将軍で、南朝との合一を実現して南北朝の分裂を終わらせた。明との勘合貿易を開始し、「日本国王」として冊封を受けた。京都北山に金閣を含む北山殿を築き、北山文化を象徴する強大な将軍権力を形成した。
室町幕府第8代将軍で、後継問題や守護大名の対立が応仁の乱へ発展し、幕府の統制力が大きく低下した。政治から離れた後、東山山荘に銀閣を建て、書院造・庭園・茶・芸能など東山文化の発展を支えた。
室町幕府8代将軍足利義政の正室で、子の義尚誕生後は将軍継嗣問題や幕府政治に強い影響力を持った。応仁の乱の時期にも政治・財政面で活動し、義尚が9代将軍となった後も幕府内で大きな存在感を保った。
京都の相国寺で禅と絵を学び、周防の大内氏のもとで活動した。明へ渡って中国絵画を学び、日本独自の水墨画様式を発展させた。
父観阿弥とともに猿楽能を発展させ、足利義満の保護を受けた。多数の能作品と『風姿花伝』などの能楽論を残し、能を高度な舞台芸術へ発展させた。
STEP 6|日明貿易
足利義満は中国の明との正式な貿易を始めました。倭寇と正式な貿易船を区別するために勘合という札が使われたため、日明貿易は勘合貿易とも呼ばれます。
日本からは銅や硫黄、刀剣などが輸出され、明からは銅銭や絹織物などが輸入されました。外国との交流は経済だけでなく、室町文化にも影響を与えました。
STEP 7|北山文化と東山文化
足利義満の時代には、武家文化と公家文化、大陸文化が結びついた北山文化が栄えました。
足利義政の時代には、簡素さや落ち着きを重んじる東山文化が発達しました。銀閣や書院造などが代表的です。
能、水墨画、生け花や茶の湯につながる文化など、現代にもつながる文化が発達しました。
STEP 8|産業と人々の結びつき
室町時代には農業技術が進み、商業も発達しました。定期市が開かれ、交通の要地には町が発達します。同じ職業の商工業者が座をつくることもありました。
農村では人々が惣と呼ばれる自治的なまとまりをつくり、都市では町衆が自治に関わる例も見られました。
STEP 9|応仁の乱と戦国時代
15世紀後半、将軍家や有力な守護大名の対立などが重なり、京都を中心に応仁の乱が起こりました。争いは長く続き、京都は大きな被害を受けます。
その後、室町幕府の支配力はさらに弱まり、各地では実力で領国を支配する戦国大名が成長しました。身分の下の者が上の者を倒すような動きは下剋上と呼ばれます。
STEP 10|TEXtTEXt
ここからはTEXtTEXtに実際に登録されている社会の問題です。
室町幕府が成立した理由として適切なものはどれですか。
守護の役割としてもっとも適切なものはどれですか。
文化が発展した理由としてもっとも適切なものはどれですか。
足利尊氏が京都に幕府を開き、守護大名の力を利用して全国を治めました。
足利義満は南北朝を統一し、日明貿易を進めました。北山文化・東山文化は現在の日本文化にもつながっています。
応仁の乱の後、幕府の力が弱まり、各地で戦国大名が成長しました。
室町幕府、足利義満、金閣・銀閣、応仁の乱を別々に覚えるのではなく、守護大名の力を利用した幕府が栄え、その一方で地域の力が強まり、やがて戦国大名が成長していく時代として見ると、室町時代の流れが理解しやすくなります。