小学6年生・中学生 社会|日本史

南北朝時代とは?
2つの朝廷と武士の争いを、流れでつかもう。

鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は建武の新政を始めました。しかし足利尊氏との対立から朝廷は南朝と北朝に分かれ、各地の武士を巻き込む争乱が続きます。このページでは、建武の新政から1392年の南北朝合一までを年表と問題で学びます。

STEP 1|まず全体像

南北朝時代は、朝廷が2つに分かれて争った時代

1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は天皇を中心とする建武の新政を始めました。しかし武士への恩賞や政治の進め方をめぐって不満が広がり、倒幕に参加した足利尊氏も後醍醐天皇と対立します。

建武の新政鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が天皇中心の新しい政治を始めます。
南朝と北朝後醍醐天皇が吉野へ移り、京都の北朝と吉野の南朝が並び立ちます。
武家政治へ足利尊氏が征夷大将軍となり、南北朝の争いの中で室町幕府の体制が整います。
「南北朝」とは?
京都に置かれた北朝と、後醍醐天皇が吉野に開いた南朝が、それぞれ正統な朝廷であると主張した状態をいいます。争いは朝廷内部だけにとどまらず、各地の武士が両陣営に分かれたため全国へ広がりました。

STEP 2|重要年表

建武の新政から南北朝の合一まで

年号を一つずつ暗記するより、「なぜ後醍醐天皇と足利尊氏が対立したのか」「なぜ朝廷が2つに分かれたのか」をつなげて読むと、南北朝時代の流れが見えやすくなります。

1318

後醍醐天皇が即位する

後醍醐天皇が即位し、天皇中心の政治を目指しました。鎌倉幕府打倒を計画し、その後の建武の新政や南北朝の動乱へつながります。

1333

鎌倉幕府が滅亡する

新田義貞らが鎌倉を攻め、北条氏の鎌倉幕府が滅亡しました。約150年続いた武家政権が終わり、後醍醐天皇の建武の新政が始まります。

1335

足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す

中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は後醍醐天皇の命令に従わず、建武政権に反旗を翻しました。これにより朝廷と尊氏の武力対立が本格化します。

1336

湊川の戦いが起こる

湊川の戦いで足利尊氏軍と後醍醐天皇方の楠木正成・新田義貞らが戦いました。尊氏軍の勝利によって京都進出が決定的になります。

1336

後醍醐天皇が吉野へ移る

後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ移り、自らが正統な天皇であると主張しました。京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝時代が始まります。

1336

南北朝の対立が始まる

京都の北朝と吉野の南朝が並び立ち、二つの朝廷が正統性を争う状態になりました。この対立は1392年の合一まで約半世紀続きます。

1334

後醍醐天皇による建武の新政が始まる

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が天皇中心の建武の新政を始めました。しかし武士の不満が高まり、足利尊氏との対立へ発展します。

1338

足利尊氏が征夷大将軍となる

1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命されました。京都を中心とする室町幕府の将軍として武家政権を率いましたが、吉野の南朝との争いはその後も続きました。

1351

足利尊氏が一時的に南朝と和睦する

観応の擾乱で弟・直義と争った足利尊氏は、直義に対抗するため一時的に南朝と和睦しました。幕府内部の争いと南北朝対立が複雑に結び付きます。

1392

南北朝が統一される

南朝の後亀山天皇が京都へ戻り、南北朝が統一されました。約60年にわたった二つの朝廷の対立が終結します。

STEP 3|建武の新政

幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇中心の政治を目指した

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとして捕らえられ、隠岐へ流されました。その後、隠岐を脱出すると倒幕の動きが一気に広がり、1333年に鎌倉幕府が滅亡します。

幕府滅亡後に始まったのが建武の新政です。後醍醐天皇は天皇中心の政治を進めましたが、恩賞や所領をめぐって武士の不満が高まりました。やがて足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、新しい政治をめぐる争いが始まります。

STEP 4|南朝と北朝

京都の北朝と吉野の南朝。政治の中心が2つに分かれる

1336年、足利尊氏は京都で光明天皇を擁立し、後醍醐天皇は吉野へ移りました。こうして京都の北朝と吉野の南朝が並び立ちます。両方の朝廷が自らの正統性を主張し、各地の武士もそれぞれの側について戦いました。

1338年には足利尊氏が征夷大将軍となり、京都を中心とする武家政権の体制が整えられていきます。ただし、将軍が生まれたことで争いが終わったわけではありません。南朝との対立や幕府内部の争いも続き、政治情勢は長く不安定でした。

後醍醐天皇

天皇

鎌倉末から南北朝初期の第96代天皇で、鎌倉幕府打倒を目指して元弘の乱を起こした。幕府滅亡後に天皇中心の建武の新政を開始したが、足利尊氏と対立して吉野へ移り南朝を開いた。以後、京都の北朝との南北朝対立が続いた。

足利尊氏

征夷大将軍

鎌倉幕府の有力御家人から後醍醐天皇の倒幕に参加し、六波羅探題を攻め落とした。建武の新政後に天皇と対立し、京都に光明天皇を立てて1338年に征夷大将軍となり室町幕府を開いた。南朝との対立による南北朝時代の北朝側の中心人物となった。

楠木正成

武将

後醍醐天皇の倒幕運動に応じ、赤坂城・千早城で幕府軍と戦った。建武政権成立後も天皇方として活動し、1336年の湊川の戦いで足利尊氏軍と戦って敗死した。

後亀山天皇

天皇

南北朝時代の南朝最後の天皇で、兄長慶天皇の後を継いだ。1392年、足利義満の仲介で北朝の後小松天皇へ三種の神器を渡し、南北朝の合一が実現した。以後、皇位は北朝系へ一本化された。

STEP 5|争乱の広がり

南北朝の争いは、各地の武士の力も変えていった

南朝と北朝の争いでは、各地の武士がどちらの側につくかを選びながら戦いました。幕府は軍勢の動員や地域支配を守護に担わせたため、争乱が続く中で守護の権限が強まっていきます。

また、足利尊氏と弟の直義の対立から観応の擾乱が起こるなど、幕府内部でも争いが発生しました。南北朝時代は「2つの朝廷の争い」だけではなく、武家社会の勢力関係が大きく組み替わっていく時代でもあります。

STEP 6|TEXtTEXt

文章を読んで、南北朝時代を確かめよう

TEXtTEXtに実際に登録されている小学6年生・社会の問題から、南北朝、足利尊氏、室町幕府成立につながる内容を表示しています。

TEXtTEXt|武士の政治の発展

室町むろまち幕府ばくふの始はじまり

鎌倉かまくら幕府ばくふが滅ほろんだ後あと、足利尊氏あしかがたかうじは新あたらしい幕府ばくふを開ひらきました。京都きょうとの室町むろまちに政治せいじの中心ちゅうしんがおかれました。この政権せいけんは室町むろまち幕府ばくふとよばれます。

室町むろまち幕府ばくふが成立せいりつした理由りゆうとして適切てきせつなものはどれですか。

STEP 7|1392年

足利義満の時代に南北朝が合一する

長く続いた南朝と北朝の対立は、室町幕府第3代将軍・足利義満の時代に終結へ向かいます。1392年、南朝の後亀山天皇が京都へ入り、北朝の後小松天皇へ三種の神器を渡しました。これによって約60年にわたった南北朝の分裂が終わります。

南北朝の合一後、室町幕府は有力守護を統制しながら政治の安定を進めます。ここから先は、足利義満、日明貿易、北山文化などを中心とする室町時代の学習へつながります。

南北朝時代で押さえたいポイント

1

建武の新政

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が天皇中心の政治を始めましたが、武士の不満が高まりました。

2

南朝と北朝

後醍醐天皇が吉野へ移り、京都の北朝と吉野の南朝が正統性を争いました。

3

室町幕府へ

足利尊氏が征夷大将軍となり、争乱の中で新しい武家政権の体制が整えられていきました。

もっと詳しく調べる・問題を解く

「幕府が滅びた後」をつなげると、南北朝が見えてくる

鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政、足利尊氏との対立、南朝と北朝の分裂、そして1392年の合一までをつなげると、鎌倉から室町へ政治の仕組みが変わっていく流れが見えてきます。